となりのたしまさん。

日本人なのに日本語を勉強中。20代青年による日本紹介サイト。外国人に「日本のすばらしさ」を伝えるべく「日本」ついてはもちろん、海外の情報もたくさんアップしていきます。「少子高齢化」がすすんでいる日本。外国からの労働力がますます必要になってきています。外国の方々に「日本を好きになってもらえるように」。そんなことを意識して、ぼちぼち更新していきます。今年の目標も、「変わらないこと」。そのために「変わり続けること」。みなさん楽しみましょう、今回の人生。

となりのたしまさん。

太平の世が崩れ始めた大規模な戦争「禁門の変」【大政奉還への道④】

f:id:yutonsmaile:20200612224635p:plain

参預会議

八月十八日の政変により、尊攘急進派の長州藩、そして同じく過激攘夷派公家の三条実美たちを京から追放した。

その後、朝廷と幕府の政局の安定を図るため、朝廷、幕府、有力諸藩が集まり、合議によって国政を決める新しい形の会議が始まる。これを参預会議と呼ぶ。

これに参加した諸藩は、
・松平慶永(福井藩14代藩主、前政治総裁職)
・山内豊信(土佐藩15代藩主)
・伊達宗城(宇和島藩8代藩主)
・松平容保(会津藩9代藩主、京都守護職)
・島津久光(薩摩藩12代藩主島津忠義の父(国父))

幕府は徳川慶喜(将軍後見職)、朝廷は中川宮、二条斉敬が参加した。

 

主な議題は

長州藩の処分と破約攘夷についての2つである。

しかし、どちらの問題も幕府と諸藩、諸藩同士で意見が対立し、良い結果を出すこともなく、数カ月でこの参預会議は崩壊した(1864年3月)。特に一橋慶喜は薩摩藩(島津久光)が台頭し、政治的実権を握られるのが気にくわなかったらしい。

 

「新選組」の名が広がったあの事件

8月18日を境に公武合体派が制圧した京だったが、

長州藩を中心とする尊王攘夷派はいまだに潜伏していた。

「自分たちこそ、もっとも国を思い、尊王の念を抱いている者なのになぜ追放されなければならないのか。幕府のバカ野郎。薩摩・会津のバカ野郎。」

彼らはまた桜田門外の変をきっかけとして起こった攘夷の嵐を再び起こそうと画策し、朝廷の中川宮、京都守護職松平容保らの暗殺計画を企てた。

しかし、この暗殺計画は会津藩預かりの組織「新選組」によって未遂に終わる。

元治元年(1864年)6月5日。旅館池田屋にて、長州、肥後、土佐藩などの尊王攘夷派志士約30名が会合していたところを新選組が襲撃し、多数の死傷者をだした。

この事件を池田屋事件といい、何度も映画化、ドラマ化されて今日もよく知られている出来事である。

この事件で死んだ主な尊王攘夷派志士として熊本藩の宮部鼎蔵、土佐藩の望月亀弥太などが挙げられる。長州藩士も多く殺害され、長州藩の幕府に対する恨みはさらに強いものとなる。また、新選組はこれを機に知名度が上がり、多くの隊士が増え、勢力が増大した。

 

長州を賊軍とみなす

 池田屋事件にて、多数の長州藩士が死んだ。

長州藩も黙ってはいない。

長州藩の福原越後、国司信濃、益田右衛門介ら3家老が兵を率いて京に向かい、京都御所の蛤御門付近で門を守る会津・薩摩藩の兵と戦う。この出来事が禁門の変(元治元年(1864年)7月19日)である。この戦いで長州軍は御所に向かって大砲を撃ったことで、完全に朝敵となり、「天下の賊軍」とみなされるようになった。

この禁門の変は、江戸時代を通して見れば、大阪冬の陣、夏の陣、天草島原の乱と続く大規模な戦争であった。逆に言えば、それ以外は目立った戦いはなく黒船来航前はいかに太平の世であったかが分かる。

蛤御門での戦いは一日で終わりを迎えたが、この戦いに伴い長州藩邸と蛤御門付近から出火し、多くの家屋が焼失し、多数の死者もだした。(元治の大火)

 

また、長州藩も多くの戦死者、被災者をだし、幕府だけでなく、会津と薩摩に対しても大きな恨みを抱くことになる。この戦い以後、長州藩士は下駄の裏に「討薩賊会奸」と書き、恨みを忘れずにいたほどである。薩賊会奸とは「薩摩という賊、会津という奸物を討つ」という意味である。

※奸物:悪知恵にたけた人。腹黒い人。 大辞林より

 

※この憎み合う程の関係になった長州と薩摩は後に同盟を結び、明治維新の軸となる。この時はまだ誰も知らない物語。

 

 

 一会桑政権(いちかいそうせいけん)

 ここで、もう一度幕府の政治体制について見ていきたい。

参預会議が崩壊してまもなく一橋慶喜は将軍後見職を辞職し、禁裏御守衛総督の任に就いた。禁裏御守衛総督とは、幕府の了解のもと、朝廷によって禁裏(京都御所)を警護する為に設置された役職のことである。

※Wikipediaより引用

京では公武合体派が主流となり、朝廷の政治的権威もますます増していき、政治の中心も江戸から京に移っていった。

 そんな中、禁裏御守衛総督となった慶喜は、京にて朝廷と距離を近づけ、松平容保率いる会津藩と松平定敬(桑名藩4代藩主)率いる桑名藩と協力して政治体制を築いていく。

・一橋慶喜(禁裏御守衛総督)

・松平容保(京都守護職)

・松平定敬(京都所司代)

 この三者により構成された体制を 一会桑政権(いちかいそうせいけん)と呼ぶ。

また、この体制は雄藩(特に薩摩藩)の国政参加を排除することも目的であり、

「政治的実権はあくまでも幕府が握っているよ。諸藩のみんな、あんまりしゃしゃりでないでね。」という意味がある。

一橋慶喜とともにこの体制を築いた松平容保と松平定敬は兄弟であり、最期まで徳川幕府を支持し、佐幕派を貫いた。

●高須四兄弟

高須藩10代藩主松平義建の子には男子が多かった。

・次男:尾張藩14代藩主徳川慶勝

・三男:浜田藩3代藩主松平武成

・五男:尾張藩15代藩主(後に一橋家10代当主)徳川茂徳

・七男:会津藩9代藩主松平容保

・八男:桑名藩4代藩主松平定敬

・十男:高須藩13代藩主松平義勇

 義建の多くの息子が幕末に活躍し、その中でさらに聡明であった慶勝、茂徳、容保、定敬を高須四兄弟と呼ぶ。

 

●今回のポイント

京は公武合体派が台頭。

禁門の変により長州は朝廷からも幕府からも憎まれる。

幕府も朝廷に癒着し、雄藩(特に薩摩藩)に国政の実権を握られないように独占。幕府と雄藩の対立の兆しが芽生え始める。

 

続きはこちら↓↓↓