となりのたしまさん。

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【江戸時代・幕末】世界でも類を見ない異例の権力返上「大政奉還」はどのようにして生まれたのか!?⑤「長州征討」

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ボロボロの長州

話を少し前に戻してみよう。

文久3年(1863年)5月10日、攘夷実行の日。

しかしながら、実際に攘夷を実行したのは長州藩だけであった。

長州藩はこの日にアメリカ商船を砲撃。その後もフランス船、オランダ船と次々と異国の船を砲撃していった。

長州によるこの攻撃により、船体に被害、人員にも死者を出したアメリカやフランスは黙っていない。すぐに報復攻撃にでる。

長州の軍艦、砲台、民家を攻撃し、下関の町に大ダメージを与えた。

 

同年8月。

京では、長州をはじめとする攘夷派が追放されるという八月十八日の政変が起こり、公武合体派が勢いづく。

そして、翌年(元治元年)に起こった禁門の変により、完全に長州は朝敵なる。

異国から攻撃されている時に、国内でも長州は孤立し、嫌われ者になった。

 

さらに、元治元年(1864年)7月27日。イギリスを中心とした四国連合艦隊が前年の異国船砲撃に対する報復のため、長州を攻撃した(下関戦争)。

イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻の計17隻による報復攻撃である。これは長州の武力を徹底的に排除し、西洋の力を見せつけ、攘夷が不可能であることを分からせる目的もあった。

 

この四国連合艦隊による攻撃は講和の締結(イギリスの要求を呑むこと)をもって終了した。

その要求内容は「砲台撤去また新たな砲台建設の禁止」「300万ドルの賠償金」「下関海峡を通る外国船の通行の自由またそれらに必要品を提供」などであった。

ただ、この講和を一任された長州藩の高杉晋作は彦島(現在:山口県下関市の南端にある島)の租借要求だけは断固拒否した。

※ただ、この彦島租借拒否のエピソードが本当に存在したかは定かではない。

高杉晋作は以前香港に渡航したことがあり、イギリスの力をすでに思い知っていた。

彦島をイギリスに渡せば、第二の香港になりかねない、と思ったのであろう。

 

第一次長州征討

もうこの時点でも長州はボロボロであるが、まだまだ終わらない。

 

禁門の変の後、

朝廷は幕府に長州を攻撃せよと勅命を下す。長州側からすれば、異国からの攻撃を受けている中(下関戦争)、さらに幕府からも攻撃が始まるという完全に気力を失うようなことである。

この長州征討の任を受けた幕府は西国三十六藩の兵を動員し、芸州藩(広島)の広島城下に集結させる。

攻撃する準備はいつでもできる体制であったが、薩摩藩の西郷隆盛の尽力もあって、この長州征討は戦さをせずに終了となった。このとき、西郷隆盛は幕府の命で征討軍の参謀をしており、長州処分を委任されていた。

西郷は長州に禁門の変で兵を率いた3家老(福原・国司・益田)の切腹、隊長クラスの斬首などを条件としてこの征討を取り止めると働きかけた。

異国の攻撃や禁門の変ですでに疲弊していた長州はこれを受け入れ、幕府に謝罪することに決定した。

これをもって、第一次長州征討は実際に開戦することなく、元治元年(1865年)12月に終了した。

 

幕府に対する不信

結果として、第一次長州征討は幕府の勝利で終わった。

攘夷の大きな勢力だった長州藩の弱体化に成功し、完全に幕府は勢いづいた。

 

かのように思えた。

 

実際、どうかと言うと

「長州一藩に対してここまでするのはかわいそうだ」

西国諸藩の尊王攘夷派の中には長州に同情するものもいた。

 また、

「長州征討というめんどくさいものを押しつけやがって」

戦をするには莫大なお金がかかるので、藩の力を蓄えるために無駄な戦を避けたい藩もある。薩摩藩もその一つであった。

「そもそも俺たち藩の支援があって、幕府があるんだからな!!!」

「でも、一会桑政権というおれたち雄藩の力を押さえる変な勢力も作っているし、最近調子乗ってない?」

薩摩藩の幕府に対する不信はどんどん高まっていくことになる。

 

長州はもう終わり?いや「あの男」がまだいる。

長州藩に視点を移す。

異国からも攻撃。国内からも攻撃。

敗北に敗北を重ね、藩内では、尊攘激派(尊王攘夷過激派)の威力は弱まり、長州藩士椋梨藤太率いる保守派(幕府恭順派)が主流となっていた。椋梨藤太は第一次長州征討において、征討軍の降伏条件に従い、3家老(福原・国司・益田)を切腹させた保守派の代表的人物である。

「もう歯向かうのは疲れるし、これからは幕府の言うことを聞いて、長州藩をよくしていこうぜ」

そのような考えが強くなっていった。あれだけ攻撃されたら無理もない。

 

しかし、あの男だけはまだ違った。

そう、高杉晋作である。

 高杉は幕府に恭順の姿勢を示す保守派を打倒しようと画策し、元治元年(1865年)12月15日、藩内でクーデターを起こす。功山寺挙兵である。椋梨藤太ら保守派を長州から追放し、再び尊王攘夷、そして倒幕の勢いを強めていった。

 尊王攘夷の色が一時弱まった長州だが、高杉を中心としてまた活気づいていくことになる。

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 ※高杉晋作(Wikipediaより画像引用)

●今回のポイント

第一次長州征討は幕府の勝利。長州藩の敗北。

幕府は勢いづくが、薩摩藩といった雄藩の不信も生まれる

長州藩は藩内で保守派(幕府恭順派)が一時勢いづくが、高杉晋作が再び尊王攘夷・倒幕の力を強める。