第15代将軍「徳川慶喜」
第二次長州征討の真っただ中、将軍徳川家茂が大阪城で死去。
幕府内では「次期将軍は一橋慶喜」と声が上がっていたが、当本人はこれを拒否。
長州征討が事実上幕府の大敗で終わり、幕府の権威が失墜した。多くの諸藩が幕府を見限って離れようとする中、
「えっ、この時期におれが将軍になるの?荷が重いよ!」
と思ったのだろう。
しかし数か月後、周りの粘り強い説得の末、慶喜は将軍に就くことを受諾。
慶喜がすぐに将軍に就かなかった理由として、このような説もある。
「言われるがままにすぐに将軍に就くより、公家や老中が心の底から『将軍になってほしい』と願ったところで引き受ける。焦らしたほうが信頼を得やすい」
慶応2年(1867年)12月5日、徳川最後の将軍であり、在任期間最短の将軍、
第15代将軍徳川慶喜がここに誕生した。
しかし、案の定大変な時期に将軍なった。
慶喜が将軍に就いた20日後の12月25日、孝明天皇が死去。
孝明天皇は公武合体派であり、佐幕派。慶喜とも仲が良かった。
次期天皇となった明治天皇は当時14歳。まだ政治の実権を握るには幼すぎる。
幕府は大きな後ろ盾を失い、朝廷内では佐幕派の勢いがなくなり、倒幕派が台頭していくことになる。
「土佐藩」はどう動く?~清風亭会談~
※Wikipediaより画像引用。
第二次長州征討後、慶喜率いる幕府はフランスの援助のもと、軍制改革を行い、再び幕府の力を取り戻そうと奮闘していた。
対して、長州藩、薩摩藩といった雄藩は「われこそが天皇を支え、これからの日本を動かすにふさわしい」と倒幕に向けて着々と準備をしていた。
「長州と薩摩は確かに勢いづいている。武力で幕府を倒すこともできるだろう。ただ、戦争が起こればたくさんの血が流れ、日本は疲弊する。最後に笑うのは異国であろう」
薩長同盟の立役者坂本龍馬はそう考えていた。
今こそ、土佐藩の出番ではないのか。
土佐藩を治める山内家はもともと徳川家ではなく織田家の家臣。つまり譜代大名ではなく外様大名である。しかし。徳川家は山内家を厚遇し、土佐一国を与える。初代藩主山内一豊から最後の藩主山内豊範(第16代藩主)まで、徳川幕府に対し感謝の念を抱いていた。土佐藩は外様でありながら佐幕の心があるという特殊な藩であった。
龍馬はこの土佐藩の精神風土をうまく利用できると考えた。
慶応3年(1867年)1月12日、長崎の料亭「清風亭」で龍馬は土佐藩参政後藤象二郎と会談。
※参政とは政治に参与する職。藩主の次に高い位。
当時、土佐藩藩主は山内豊範だったが、政務を行うにはまだ幼く、実質、土佐を動かしていたのは前藩主の山内豊信(容堂)であった。後藤象二郎は山内容堂から信頼を受け、参政職に就いた。
そんな後藤と龍馬が長崎で会談をした。龍馬は下士(郷士)であり、後藤は上士である。当時、土佐には武士の中にも身分階級があり、上士と下士に分かれていた。その身分の差ははっきりしており、「上士にとって下士は犬猫同然」と下士は上士にひどい扱いを受けていた。
これを踏まえると、下士の龍馬と上士の後藤が会談するということが実に異例なことであったかお分かりいただけると思う。
後藤は先見の明があると言われるほど聡明な人物であった。身分の垣根を超え、龍馬と会うことも抵抗がなかったと思われる。
「土佐は徳川に感謝の念がある。だから裏切ることはない。しかし、そんな土佐がもし長州や薩摩に寝返るとなれば、倒幕路線に傾くとなれば、徳川も政権を帝に返上することを考えざるをえないだろう」
龍馬は後藤に清風亭にて、
新しい日本の在り方
土佐藩が新しい日本の要となる
ことなど伝えた。
この出来事は清風亭会談と呼ばれる。
四候会議
「倒幕運動がますます勢いづいてる!」
江戸幕府が始まって以来、最悪の苦境に立たされている男、徳川慶喜。
慶喜はこれからの幕府のゆくすえ、日本のゆくすえを話し合うため、当時「名君」とみなされていた4人の大名を京都に呼び寄せた。四候会議である。
左から
島津久光(薩摩藩第12代藩主島津茂久の父)
松平春嶽(福井藩第14代藩主)
山内容堂(土佐藩第15代藩主)
伊達宗城(宇和島藩第8代藩主)
である。
※Wikipediaより画像引用。
しかし、会議は迷走。長州処分問題で意見が分かれた。
島津久光は長州征討後の長州藩への処分を取り止めるべきだと主張(毛利敬親父子の官位をもとに戻すなど)。
対して慶喜は、「それを許せば幕府の非を認めたことになる」と久光の意見を拒否。兵庫開港問題の方を先に解決すべきと主張。
※兵庫開港 京に近い兵庫港を開港してアメリカやイギリスといった異国と通商するかどうかの問題。異人嫌いの孝明天皇が許可を出さず、計画が進んでいなかった。
結局、久光と慶喜の対立により、会議での話し合いは頓挫する。
これを経て、薩摩は話し合いによる公儀路線では幕府を倒すことは不可能であるとし、武力倒幕路線に舵を切った。
新しい日本のかたち「船中八策」
「お殿様が会議で京にいるぜよ」
山内容堂が四候会議で京に滞在していることを知った龍馬と後藤は大政奉還という考え方があることを容堂に進言したいと考え、長崎から船で兵庫港へ向かう。
「幕府が大政奉還をした場合、どのような国のシステムがいいだろうか」
龍馬は京へ向かう船の中で、「新国家のシステム」をまとめた。
8項目からなり船の中で作られたので「船中八策」と呼ばれる。
一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜シク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
第1項:大政奉還の勧め
第2項:二院制度と合議制の提案
第3項:人材登用と華族制度の設定
第4項:不平等条約の改定
第5項:憲法の設定
第6項:海軍強化の勧め
第7項:御親兵の設置
第8項:公平な金銀交換レートの設定
以上8項目からなる。
いま考えるとあたりまえのことばかり記載してあるが、幕末に生きた人からすればいかに画期的な考えだったか、想像できる。
京についた龍馬と後藤だが、すでに容堂は土佐へ帰国。後藤は自分も土佐に帰り、「船中八策」を容堂に伝えることを決める。
・今回のポイント
「話し合いでは解決できんでごわす」
長州と薩摩は武力倒幕を目指す。
「いや、戦をするには早いぜよ。おれたちに任せるぜよ」
土佐が大政奉還に向け、ついに動き出す。
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