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世界一へたくそな世界実況

【幕末の偉人伝】この生き方はまねしたい!幕末随一の愛妻家「武市半平太(瑞山)」について。

幕末と聞けば、さまざまな人物を思い出しますね。

坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作、徳川慶喜などなど。

たくさんの偉人たちが幕末を生き、明治維新につなげ、今の私たちが生きる日本をつくってくれました。

 

武市半平太もその中の1人。

大きく揺れる日本の中で、自分の生き方を貫いた男。

 

今日は彼の1つのエピソードを紹介します!

 

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そもそも「武市半平太」とは?

武市半平太(瑞山)は文政12年(1829年)9月27日に土佐に生まれ、坂本龍馬と同じ土佐藩の郷士です。郷士とは武士階級で下層に属する人々のことを言いますが、武市家は郷士は郷士でも「白札」と呼ばれる上士(身分の高い武士)に準するあつかいでした。

幼少期は龍馬岡田以蔵(幕末四大人斬りの一人)らと一緒に育ち、剣術を磨いていきました。

上士に準する階級と言えど、身分は郷士。上士からのひどい扱い、差別を受けながらも「土佐のこの腐ったありさまを変え、いづれは自らが土佐藩を動かす存在になりたい!」と強い精神も培っていきました。

 嘉永6年(1853年)に黒船が来航。そして、安政7年(1860年)に大老井伊直弼が暗殺(桜田門外の変)。日本全国各地で尊王攘夷の機運が高まっていました。

 武市も尊王攘夷の志が強く、龍馬、以蔵、中岡慎太郎など同士を集め、江戸にて土佐勤皇党(とさきんのうとう)を結成します。(文久元年)

この武市が創った土佐勤皇党は、土佐藩や朝廷をも動かし、もはや土佐一藩にとどまらず、全国で名の知れる尊王攘夷派グループとなり、幕末に生きた志士たちを奮い立たせました。

 

ただ、機運とは変わっていくもの。

 

文久3年に起きた八月十八日の政変で長州藩が京から追放されると、攘夷派の勢いが衰退。公武合体派が勢いを増していきます。

土佐勤皇党も公武合体派の土佐藩15代藩主山内豊信により弾圧されました。

聡明であり、先見の目があった山内豊信は「攘夷ではこれからの日本を動かすことはできない」と判断したのでしょう。

武市は攘夷の一環として行った土佐藩参政の吉田東洋の暗殺を咎められ、捕縛。吉田東洋は山内豊信からの信任が厚い人物でした。

武市は東洋暗殺を否定していましたが、慶応元年(1865年)5月11日に切腹を命ぜられ死去。

切腹の際、武市は未だ誰もなし得なかった三度自分の腹を自分で刺し絶命する三文字割腹を成し遂げ、武士の中でも武士らしく死んだとされています。

武市は生涯尊王攘夷の志を貫き通し、その武士としての生き様は坂本龍馬や中岡慎太郎の人生にも影響を与えました。

 

妻に一途だった男

己の生涯を尊王攘夷一筋に捧げた男、武市半平太

そんな武市にも妻がいました。富子(とみこ)です。

文政13年5月18日に土佐に生まれ、土佐で育ち、

嘉永2年(1849年)に武市半平太に嫁ぎました。

 

武市半平太は尊王攘夷一筋でしたが、

女性関係にも真面目で妻富子に一途でした。

 

武市半平太は剣術も学問も優れ、評判の高い人格者で、多くの若者が武市に憧れ、武市が開いた道場に通い、そして土佐勤皇党に加わりました。

しかし、酒豪が多い土佐では珍しく下戸(お酒が弱い)という一面もあり、遊郭で女性と遊ぶことも苦手だったそうです。

 

そんな真面目な武市半平太妻富子に対する愛を感じるエピソードを紹介します。

2010年に放送されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」でも描かれていました。

 

【感動秘話】

武市と富子が夫婦になって3年たった頃、

富子は武市の友人から言われたそうだ。

「武市さんは立派な人や。子ができんというのは本当にもったいない。

富子さんが家を空けてくれたら、その間におなごを連れてきて武市さんの世話をさせちゃる。そのおなごに子を産んでもらいや。」

 

武市と富子の間には子供ができなかった。

幕末において一族の血統を絶やさないように子供を産むのは当然のこと。妻にも子供を産む責任があった。

また、七去(しちきょ)という妻を離婚できる7つの事由があり、その中の1つに無子(子供ができないこと)があった。この七去という考えは江戸時代に一般化されていた。

 

「3年間子供ができないのに、旦那さんは何一つ文句を言わず私を家に置いてくれている。他の女を旦那さんのそばに置くのは嫌だが、ここは私が我慢しよう。」

富子は家を空けて実家に帰ることにした。

 

代わりに武市の家にやってきたのは、顔立ちの良い若い娘だった。

 

だが、武市はその娘に対して指一本触れない。

 

武市の友人もあきらめが悪く、その後もどんどん若い娘を武市の家に連れてきたが、

一切その娘たちに手を付けなかった。

 

友人の策略に気づいた武市は富子を実家から呼び戻し、こう言った。

「つまらんことをするな」

 

武市が吉田東洋暗殺の件で牢屋に投獄された時も、

富子は

「旦那さんが冷たい地べたで寝ているのに、私が布団で寝ることはできない」

と自分も板の間で寝て過ごしたという。

 

武市も富子を想い、富子も武市も想う。

子供がいなくても、武市と富子の夫婦のきずなはとても強かったのである。

 

 

尊王攘夷に生涯を捧げ、己の生き方を貫いた男、武市半平太。妻にも一途でまっすぐな男でした。

 

また面白いエピソードを見つけたら記事にします!

ご覧いただきありがとうございました!