となりのたしまさん。

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となりのたしまさん。

徳川御三家『紀州藩』が負けた!?明治維新にもつながった「いろは丸沈没事件」について。

まさに激動の時代であった"幕末"

今回はそんな幕末に起こった"ひとつのエピソード"を紹介します。

 

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『いろは丸沈没事件』

慶応3年(1867年)

この時はどんな時期だったのかと言うと、

幕府長州藩に大敗(長州征討)。幕府の権威が失墜し、反幕の動きがよりいっそう強まっていった時期でした。

 

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そんな中、土佐藩脱藩浪士坂本龍馬率いる海援隊は長崎を拠点とし、全国各地へ事業を拡大していました。

海援隊とは、幕末、坂本龍馬らが長崎で組織した貿易結社。(精選版日本国語大辞典より引用)

慶応3年(1867年)4月19日。

海援隊大洲藩から借りたいろは丸という船で10人の客と米や砂糖などを乗せて、大阪に向けて長崎を出航しました。

4月23日。

瀬戸内海を航行中、紀州藩の軍艦明光丸に衝突。

いろは丸の乗員乗客は明光丸に移動し、全員助かったもの、いろは丸自体は887トンの明光丸の威力に耐え切れず、大破。いろは丸は160トンでした。

 

その後、龍馬ら海援隊は鞆の浦(広島県福山市)に上陸し、"今回の衝突事故は明光丸(紀州藩)に非がある"とし、賠償金を求めました。

 

海援隊(土佐藩)紀州藩

たかだか脱藩浪士らの集まりである海援隊が徳川御三家の紀州藩に物申す。

当時の時代からすれば、いかにクレイジーなことだったか。

 

しかし、

結論から言うと、

この海難事故の談判は海援隊の勝利に終わります。

 

紀州藩と土佐藩

この『いろは丸沈没事件』を理解するにあたって、

当時の藩の立ち位置を知っておくと、より面白いです。

 

紀州藩

尾張藩水戸藩と並ぶ、徳川御三家の一つ。

徳川御三家とは江戸幕府を開いた初代将軍徳川家康の男系の血を受け継ぐ家のことです。徳川の姓を名乗ることが許されて、将軍家に後継ぎがいない場合はこの3つの藩から次期将軍が選ばれます。

紀州藩出身と言えば、徳川吉宗が有名です。

昔、暴れん坊将軍という時代劇ドラマもありましたね。俳優松平健さんが吉宗役を演じていました。

吉宗は紀州藩5代藩主であり、第7代将軍徳川家継の死後、第8代将軍となります。

 

このように、紀州藩は幕府との関わりが強く、当時の日本において大きな力を持っている藩の一つでした。

 

土佐藩

では、土佐藩はどうでしょうか。

 

土佐藩は明治維新に向けて大いに活躍を見せた藩の一つで、坂本龍馬や中岡信太郎、武市半平太、そして、明治に入っても活躍を見せた板垣退助、後藤象二郎など名だたる人物を輩出しています。

しかし、表面的には外様藩

外様とは徳川家の家臣ではない大名という意味であり、土佐を領していた山内家は元々織田家の家臣でした。

 

 

外様藩と御三家

「そもそも、外様一藩ごときが天下の御三家に物申していいのか」

「紀州側に非があったとしても泣き寝入りするしかないんじゃないか」

 

藩の格から見れば、紀州藩に軍配が上がるのが当然のことでした。。。

 

事件の結果

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「これは、日本で最初の蒸気船同士の海難事故だ。異国との関わりも増え、これからどんどん蒸気船は増えていく。同じような事故が起こる可能性もある。

最初の事例が引き合いに出されたとき、

『土佐は紀州に泣き寝入りした』

『相手に非があっても、力の弱い者が引き下がらなければいけない』

そんなふうに思われてはいけない!」

龍馬はこのように思ったはず。

 

慶応3年(1867年)5月15日。

海援隊(土佐藩)紀州藩の談判が長崎の聖徳寺で始まりました。

土佐からは龍馬、小谷耕蔵(いろは丸船長)、岩崎弥太郎ら、紀州からは岡本覚十郎、高柳楠之助(明光丸船長)らが出席しました。

龍馬ら土佐側は航海日誌などをもとに判断すべきとしたが、終始話し合いは水掛け論。

最終的に紀州側が

「そんなに我らに非があると思うなら、御公儀の判断に委ねるのはいかが」

と煽り、土佐側に長崎奉行の裁定を求め、第一回の談判が終了しました。

御公儀とは朝廷、幕府またはその役人を敬っていう語のこと。

長崎奉行は江戸幕府の組織の1つ。幕府と関わりが強い紀州藩にとっては仲間も同然です。自分たちの都合のいい様に持っていこうと考えていました。

 

しかし、海援隊も黙ってはいません。

談判後、龍馬らは

「船を沈めたその償いは金をとらずに国をとる♬

よさこい♬よさこい♬

国をとってみかんを食らう♬

よさこい♬よさこい♬晩に来い♬」

といった

「いろは丸事件」のことを揶揄し、紀州藩を笑いものにした自作の歌を長崎の花街で流行らせました。

この甲斐あって、

余裕をかましていた紀州藩が「世間の笑いものになっては困る」と思ったのか、自ずから海援隊に談判を求めてきました。

 

同年5月22日。

再び、聖徳寺で第二回の談判が始まりました。

紀州側は紀州藩勘定奉行茂田一次郎、土佐側は土佐藩参政後藤象二郎といった大役が新たに出席しました。

このとき龍馬は

「船同士の衝突事故は世界共通で定められている法律で解決すべきだ」

として、万国公法に則って決議することを求め、イギリス海軍提督ヘンリーケッペルに臨席してもらい、談判を進めました。

万国公法とは今でいうところの国際法で、龍馬はこの万国公法に精通していました。

「世界のルールに則って、事件を解決する。これから日本が異国と渡り合う上で大事なことではなかろうか」

茂田率いる紀州側は龍馬の交渉術に圧倒され、結果、

「事故の原因は明光丸にある」と認め、賠償金8万3000両を支払うことを認めました。

 

龍馬率いる海援隊の奮闘により、紀州を打ち負かしたことは事実ですが、

時代が反幕に動いていたこともあり、江戸幕府と関わりの強い紀州藩は余計な波風を立てたくなかったので、仕方なく非を認めたとも考えられます。

 

最後に

日本で最初の蒸気船同士の海難事故

いろは丸沈没事件

万国公法を用いた交渉もこれが初めてでした。

 

「徳川御三家を打ち負かした!」

この名声は全国各地に響き渡り、

そして、土佐藩は勢いづき、大政奉還に向けて走り始めました。

 

いろは丸沈没事件

藩と藩同士の小さないざこざと思いきや、

江戸幕府の終焉明治維新にもつながった

藩と幕府との衝突でもあります。

 

そして、

あまり語られることのないエピソードの1つです。

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