攘夷派の弾圧が始まる。
第14代将軍は徳川家茂と決まったが、実質政治の実権を握っているのは井伊直弼であった。将軍継嗣問題で勝利した井伊直弼は幕府内での力がますます強まっていった。
しかし、通商条約を朝廷の許可を得ずにアメリカと結んだ井伊直弼に対して、孝明天皇は不満を持ち、それに同意する公家、有力大名と一緒に反幕府の機運を高めていった。
そして、孝明天皇は井伊直弼を打倒するための密勅(戊午の密勅)を水戸藩に下した。密勅とは天皇が出す秘密の勅命である。
ただ、井伊直弼はこの動きに気づいた。
幕府を通さず朝廷から直接水戸藩に勅命が渡されたこと。さらに、幕府を差し置いてその勅命の写しを水戸藩が他の諸藩に示し、今の幕政を改めるべきと促したこと。
幕府がないがしろにされていると捉えられてもおかしくない。
井伊直弼は「不穏な動きをするやつはけしからん」というわけで、その密勅に関係した人物、自分の政策に反対する攘夷派も容赦なく弾圧していった。
密勅の主犯となった水戸藩を始め、攘夷派の大名、公家の多くも処罰され、たくさんの優秀な志士を育てた吉田松陰、福井藩主松平慶永の元で活躍した橋本佐内などもこのときに処刑された。
井伊直弼が自分の権力を大いに見せつけた出来事。これが安政の大獄(1859年)である。
幕末の思想
ここで一旦、幕末の思想について整理していきたい。
まず、外国船が日本に来航し始めた19世紀初頭から唱えられており、この時代を生きた日本人のだれもが持っていた思想。
それが尊王攘夷である。
●尊王 天皇を尊ぶこと
●攘夷 外国を打ち払うこと
幕末には日本の行く末を真剣に考える多くの志士がいたが、その出発点となる思想はこの尊王攘夷である。
しかし、幕府が開国したことで、
「外国の圧力に負けた幕府は無能だ」
といった反幕府的な色合いを帯びた過激な尊王攘夷派が登場し、同じ尊王攘夷という思想を持ちながら対立の構造が生まれた。
●佐幕攘夷
幕府あっての尊王攘夷。(例:新選組、会津藩主松平容保)
●反幕攘夷
幕府を倒し外国を打ち払う。(例:長州藩久坂玄瑞)
●反幕開国
幕府を倒し、外国を受け入れる。(例:長州藩桂小五郎)
単に外国のいいなりになるのではなく、外国から技術を取り入れ日本の国力を高め、その後、異国に立ち向かう。
●開国
外国の技術を取り入れ異国に負けない国力をつけるために外国を受け入れること。
(例:坂本龍馬、勝海舟)
反幕開国とどう違うの?ということだが、坂本龍馬と勝海舟は徹底した非戦論者であったということ。
ドラえもんで例えたい。
のび太はなぜジャイアンに自らケンカをしかけないのか。
答えは簡単。ジャイアンが強いと分かっているから。体が大きいし、威圧的。スネ夫という家来も従えている。勝負しても勝つ可能性は低いと分かっている。
今度はジャイアン目線で見てほしい。
なぜ、のび太はおれに挑まないのか。それはおれが強いからだ。のび太はおれに挑んでも負けると分かっている。
まずは外国を受け入れる。外国の技術をもらい、日本の国力を高め、日本を強くする。
海軍を強化して軍艦も兵もたくさん備え軍備拡張する。
「日本はあれだけの軍備がそろっている。我が軍は敵わないかもしれない」
異国が日本を見て強いと分かれば攻撃しない。負けると分かっているから。
つまり戦争をする必要がない。戦わずして勝つのが一番である。
個人的な見解だが、上記のように坂本龍馬も勝海舟も考えていたのではないだろうか。
また歴史が動く瞬間。攘夷派がさらに勢いづく。
※Wikipediaより引用
多くの攘夷派を弾圧した井伊直弼。
攘夷派たちの恨みを買うのは当然のこと。特に水戸藩士による恨みは強かったと思う。安政の大獄で水戸藩9代藩主徳川斉昭は永蟄居、10代藩主徳川慶篤は隠居・謹慎、また数人の藩士が処刑された。
※永蟄居とは終身にわたって出仕・外出を禁じ、謹慎させたもの。
安政7年(1860年)3月3日。雪が降る中、江戸城桜田門外で水戸藩の脱藩浪士17名と薩摩藩の脱藩浪士1名が彦根藩の行列を襲撃し、井伊直弼を暗殺。桜田門外の変である。襲撃者18名は桜田十八烈士と呼ばれる。
ここで重要なのが、襲撃したのが脱藩者だったことである。
まだ若く、身分の低い者が幕府を動かしている者を殺した。
同じ攘夷の志を持つ志士たちはもちろん、今まで政治に興味を持たなかった志士たちにも、
「自分たち身分の低い者でも国を動かすことができるんだ」と
さらに攘夷の熱を激しくさせた。
●文久元年12月
アメリカ公使館の通訳者(ハリスの通訳)ヘンリーヒュースケンが尊王攘夷派の浪士に殺害される。
●文久元年(1861年)5月
水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使オールコックたちを襲撃。(第一次東禅寺事件)
●文久2年(1862年)5月
東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を殺害。(第二次東禅寺事件)
●文久2年(1862年)8月
薩摩藩主島津茂久の父島津久光(国父)の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷。(生麦事件)後の薩英戦争(1863年)の引き金となった。
●文久2年(1862年)12月
江戸品川御殿山で建設中のイギリス公使館が長州藩高杉晋作たちによって焼打ちにされる。(英国公使館焼き討ち事件)
桜田門外の変をきっかけに、
幕府と藩の衝突、藩と異国との衝突がますます起こっていった。
●今回のポイント
国を動かすのは幕府や藩主、有力大名だけじゃない。
身分の低い武士たちも藩を動かし、国を動かすことができる。
桜田門外の変を機に攘夷の熱がいっそう高まった。
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