となりのたしまさん。

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となりのたしまさん。

【江戸時代・幕末】世界でも類を見ない異例の権力返上「大政奉還」はどのようにして生まれたのか!?「黒船来航」

当時の世界において、どの国でも、権力が入れ替わるときには戦争がつきもの。

多くの血を流した後にその権力の座を手に入れることができる。

しかし、日本は当時の世界で類を見ない偉業を成し遂げた国である。

戦争を行使しない権力の返上。

大政奉還

権力を手に入れるために武器で解決する以外にも方法がある。

今ではそんなことはあたりまえだが

当時の世界にとってこれがどれだけすごいことなのか。

 

また、日本にとっては武士の世が終わり、新しい日本に生まれ変わるターニングポイントとなったこと。

つまり今の日本を形作る軸となったこと。

そんな「大政奉還」はどのようにして生まれたのか、幕末に起きた出来事とともに紹介していきます。

 

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※Wikipediaより画像引用

~すべてはここから始まった~「黒船来航」

嘉永6年(1853年)6月3日。浦賀沖(現:神奈川県横須賀市浦賀)に巨大な鉄の塊が現れた。

サスケハナ号とミシシッピ号の蒸気軍艦2隻、サラトガ号とプリマス号の帆船2隻である。

当時、日本が所有する大型船は千石船と呼ばれる物資運搬用の船で、約100トンである。ペリーを乗せたサスケハナ号は2450トン、帆船でさえも800トンはある。サスケハナ号は日本の千石船と比べて約20倍大きい。

当時、この巨大な船を見た日本人は本当に驚いたと思う。黒煙をあげて走り、たくさんの大砲を持った船が目の前にいる。

泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四はいで夜も眠れず

上喜撰はお茶の銘柄。蒸気船とかけている。

お茶を4杯飲めば目が冴えて夜も眠れない。

巨大な蒸気船を4隻も見れば夜も眠れない。

このように皮肉をこめた狂歌が流行した。

 

徳川家康が江戸幕府を開いて、250年間。大きな戦は一度もなかった。

江戸時代は日本の歴史上、最も平和な時代であったといえる。

しかし、この黒船来航により、

「とうとう異国の植民地になる」

「いまの幕府で大丈夫なのか」

「これから日本はどうなるのだろう」

幕府だけではなく、朝廷、各藩の武士、百姓などにも不安や不満が生まれた。

黒船来航は、後に時代が変わる大きな転機となった「大政奉還」に向けての最初の大きな出来事である。

 

 幕府の対応

ペリー来航時の幕府の対外政策は天保薪水令(1842年公布)である。これは異国船に対して発砲せず、薪(燃料)や水などの必要な物資を与えて追い返す、といった穏健政策である。この政策が手ぬるいと非難する諸藩も少なからずいた。

この天保薪水令により交戦を避けた日本だが、ペリーが求める日本の開国・開港について決断する必要があった。

3代将軍徳川家光の時代から始まった鎖国政策。世界に目を背け一国平和主義を貫いていてきたが、そろそろ切り替える時期なのではないか。

開国に反対する大名はたくさんいたが、幕府は黒船来航以前から海外の情報を収集し、分析していたことで欧米の強さを十分に知っていた。中国がイギリスに負けたアヘン戦争がいい例である。

「異国に開国を求められ、それに反論し立ち向かうだけの国力は今の日本にはない。」

当時の老中(今の総理大臣)、阿部正弘もそう思ったはずである。

黒船来航の1年後の嘉永7年(1854年)3月3日

幕府はついに日米和親条約を結んだ。

主な内容は

①漂流民と難破船の救助・保護

②避難港と石炭補給所の確保

である。当時のアメリカは捕鯨業に力を入れており、広い海を航海する上でこの条約を日本と結ぶことはとても重要であった。

この日米和親条約をもって、200年以上続いた鎖国の時代が終わりを告げた。

これから先、異国とのかかわりがますます増えていくことになる。

 

台頭する「あの男」

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※Wikipediaより画像引用

安政3年(1856年)7月21日、今度は通商条約を結ぶためにアメリカからハリスがやってくる。

日本の経済のことを考えて、2年前の日米和親条約では結ばなかった「通商」。

この条約を結べば、日本はアメリカと貿易しなければならないということである。

各藩の大名たち、当時天皇であった孝明天皇も「通商条約」に反対であったが、安政5年(1858年)6月19日、大老井伊直弼は朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約を結ぶ。

大老とは臨時の役職で立場は老中よりも上である。彦根藩主であった井伊直弼は13代将軍徳川家定の命により大老となった。

※しかし、本当に徳川家定が井伊直弼に大老に就くことを命じたかどうかは定かではない。

この日米修好通商条約はアメリカが優位になるように作られており、俗に言う不平等条約である。

アメリカ人が日本で罪を犯しても日本人が裁くことができない、すなわち「領事裁判権」をアメリカに認めるということ。

貿易をするときに日本に関税率を決める権限がない「関税自主権の撤廃」

つまりアメリカの好き放題になるということである。

また、同年にオランダ、ロシア、イギリス、フランスともほぼ同じ内容の条約を結ぶ。

アメリカとの日米修好通商条約を含むこれらの国との条約を「安政の五か国条約」と呼ぶ。

このような日本にとって不利益な条約を勝手に結んだことから、

大老井伊直弼は朝廷からも攘夷派の藩からも非難される。

この時から

「今の幕府じゃだめだ。天皇を中心に外国の圧力を排除するべき。」という尊王攘夷の思想が高まっていった。

 

将軍継嗣問題

開国だ、攘夷だと異国との外交について世の中が渦巻いている中、幕府内でも問題があった。将軍継嗣問題である。

日米修好通商条約の1か月後、13代将軍徳川家定が死去した。

家定の容態が悪化する前から次期将軍は一橋慶喜徳川慶福かという議論が繰り広げられていた。

一橋慶喜を押す有力な大名(一橋派)は、薩摩藩主島津斉彬、福井藩主松平慶永、水戸藩主徳川斉昭などで、

徳川慶福を押す(南紀派)のは会津藩主松平容保大奥、そして井伊直弼であった。

徳川慶福には政治を任せるにはまだ幼く、博識である一橋慶喜に任せたほうが日本の大事に対応できるとの意見が多かった。

しかし、家定は次期将軍は慶福にすると命じた。

慶福は血筋の近い従弟(いとこ)であること、家定は一橋慶喜が嫌いだったということなどの理由から次期将軍を慶福にしたという説もあるが、

家定はこの時、物事の判断がつかないほどの重態であったことから井伊直弼をはじめとする南紀派の陰謀だったという説もある。

いずれにせよ、南紀派の勝利、すなわち井伊直弼の勝利に終わり、14代将軍は徳川慶福(改名後:徳川家茂)となった。

この将軍継嗣問題開国派攘夷派の対立でもあり、これからの外交路線を左右する大きな出来事である。一橋慶喜を押した水戸藩主の徳川斉昭は攘夷派でこの継嗣問題を機に井伊直弼に敗れ、幕府での立場が弱まった。

 

●今回のポイント

①黒船来航により、たくさんの人が日本の行く末を考えるようになる。

②朝廷、幕府、藩の中で開国派攘夷派に分かれる。

考えが違う。←ココが大事!