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【江戸時代・幕末】世界でも類を見ない異例の権力返上「大政奉還」はどのようにして生まれたのか!?⑦「第二次長州征討」

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歴史を揺るがす大事件

慶応2年(1866年)6月7日。

第二次長州征討が始まる。幕府は諸藩に命じ、およそ15万人の大軍を配備して総攻撃をしかける。元治元年7月に起きた第一次長州征討では、実際の戦闘は行われなかったので、幕府としては「今回こそはこてんぱんにしてやんよ!」という意気込みだっただろう。

幕府は長州藩を四方面から総攻撃する作戦を立てた。四方面の国境(周防大島、芸州口、石州口、小倉口)の四境から長州藩領へ攻め込むといったものである。このことから長州側は第二次長州征討のことを四境戦争と呼んでいる。

 

①周防大島の戦い

この第二次長州征討は6月7日の朝、富士山丸を主軸とした幕府軍艦が周防大島へ攻撃したことにより始まる。

富士山丸は幕府がアメリカから購入した最新鋭の軍艦である。この富士山丸の砲撃、伊予松山藩率いる幕府軍の猛攻により周防大島はあっという間に幕府軍に占領される。

しかし12日の夜、高杉晋作率いる丙寅丸(高杉がイギリス商人グラバーから購入した軍艦)が猛砲撃し、幕府軍に夜襲をしかける。

周防大島を占領した幕府軍も長州軍奇兵隊浩武隊の攻撃により、撤退。17日には、周防大島を奪い返したのであった。

 

②芸州口の戦い

高田藩、彦根藩など率いる幕府軍が広島城に集結。13日に戦闘が開始され、小瀬川(広島県西部)が主戦場となった。

最初、ミニエー銃といった西洋の新式銃を使う長州軍御楯隊、吉敷隊の攻撃により幕府軍が劣勢に立たされたが、紀州藩が戦闘に加わり、膠着状態となる。

結局、どちらの軍も一進一退を続け、ここでの戦いは引き分けとなった。

 

③石州口の戦い

16日に戦闘開始。ここでは、石州口を任された長州軍参謀大村益次郎の活躍により、長州が大勝利する。浜田藩、福山藩率いる幕府軍との戦闘となったが、大村の西洋戦術により幕府軍は撤退。18日に長州軍は浜田城を陥落させた。

 

④小倉口の戦い

第二次長州征討でもっとも大きな戦いがこの小倉口。開門海峡を挟んで行われた。

幕府側は小倉藩といった九州諸藩を小倉城に集め、下関に攻め込むチャンスを狙っていた。

対する長州軍は周防大島で活躍を見せた丙寅丸、その他に癸亥丸、丙辰丸といった軍艦を率いて、田ノ浦港を攻撃。高杉率いる長州軍は17日のうちに幕府軍の300もの和船を焼き払い、下関に渡海攻撃する手段を奪った。その後も、奇兵隊などの攻撃により、小倉藩を主戦力とする幕府軍を追い払い、最後まで戦いの主導権を握った。最後、長州軍の勢いに圧倒された小倉藩士が小倉城に火をつけて撤退。これを持って、第二次長州征討は長州軍の大勝利で終わった。

 

なぜ長州は勝利したのか?「4つのポイント」

各諸藩から兵を募り、約15万人の大軍で長州に攻撃する幕府軍。

それに対し、長州軍はわずか3500人

圧倒的に兵力に差がありながら、なぜ長州は勝つことができたのか?

個人的見解にはなるが、簡潔に紹介していきたいと思う。

 

「大村益次郎」という男

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四境戦争では、石州口の参謀として、幕府軍を追いやり、活躍を見せた大村益次郎

元の名は村田蔵六といい、はじめは医者をしていた。

大村は若いときから蘭学(オランダから伝えられた学問)を勉強し、医学、航海術、洋式戦術など幅広い分野の知識を身につけていたので、一級の蘭学者として幕府や藩に招かれていた。

四境戦争でも、蘭学の知識を生かし、

「槍や刀ではなく新式銃を使う」

「重い鎧は着ない」

などといった画期的な戦い方を兵士に伝授した。

この彼の優れた戦略により、長州を勝利へと導いたのである。

 

大村はこの戦争後も、新政府軍に加わり活躍を見せ、明治になり維新十傑の一人に数えられる。

 

「奇兵隊」

下関戦争で、異国の強さを知った高杉晋作

「自藩の軍事力をもっと強くしないと!」と考え、藩士、軽卒(身分の低い兵士)、庶民といった身分にとらわれることなく、志高い者によって編成された軍隊を創った。

それが「奇兵隊」である。正規の武士のみからなる「正規兵」の反対の意味として、「奇兵」と呼ぶ。

この奇兵隊の誕生を機に、長州藩内で御楯隊遊撃隊といったさまざまな隊を創る。

これらの部隊をまとめて長州藩諸隊と呼ぶ。

高杉、大村益次郎などの指揮のもと、部隊をますます強化していき、四境戦争では長州藩の原動力となる。

高杉の誰に対しても分け隔てしないという精神から生まれた奇兵隊

「自分たち一人一人が行動することによって、国の行く末が決まるんだ!」

その隊士たちの志の高さが兵力において上回る幕府軍を圧倒した。

 

薩摩藩の不参加

幕末において、九州諸藩ではもちろん、全国諸藩の中でも大きな勢力を持っていた薩摩藩

文久3年(1863年)7月。薩摩藩で薩英戦争が起こる。これは生麦事件がきっかけで始まったイギリスの報復攻撃である。

結果として、薩摩側もイギリス側も互いに大きな損害を被り、薩摩が賠償金を払うことで終結。

この戦争を経て、薩摩は西洋の強さを知り、イギリスもまた薩摩の勇敢さ、強さを知る。

以後、お互いを認め、薩摩はイギリスの支援のもと、軍備拡大していくことになる。

 

この最強と言っていいほどの軍事力を備えた薩摩藩第二次長州征討に加われば、幕府は勝ったも同然である。幕府は開戦の2か月前、慶応2年4月に薩摩に対し、長州征討の命を出す。

しかし、薩摩藩大久保利通はこれを拒否。この征討は大義も名分もなく、薩摩藩は出兵しないと断言した。

ただ、薩摩側からしたら、すでに同年1月に長州藩と薩長同盟を結んでいるので参加しないのは当然のこと。また、戦争が始まる前に薩摩はイギリスから薩摩名義で武器や軍艦を購入し、それを長州に売っていた。幕府はそれを知るよしもなく、長州征討を開始したのである。

 

将軍「家茂」の死

第二次長州征討では、将軍徳川家茂も軍を率いて大阪城に入った。

将軍自ら指揮を執ることは軍の士気が上がることである。

戦いも佳境になり、各方面(周防大島、芸州口、石州口、小倉口)で長州軍が優勢であったが、幕府軍もなんとか対抗していた。

しかし、家茂が病に倒れ7月20日に死去。病因は脚気と言われている。

将軍の死によって幕府軍の士気は一気に下がり、戦線を離脱する藩も表れた。

そんな状況下の中、小倉城が陥落し、長州征討は幕府の大敗で終わった。

 

天は幕府ではなく、長州に味方したのである。

 

さぁ、大政奉還へ。

高杉晋作、大村益次郎らの優れた戦術。

奇兵隊の活躍。

薩摩藩の出兵拒否。長州に協力。

徳川家茂の死。

これらによって第二次長州征討は幕府の大敗で終わった。

 

「たかが外様一藩に天下の幕府が負けるわけがない!」

幕府は再び長州に兵を送り込むこともできた。

しかし、幕府に追い打ちをかける出来事が征討と時を同じくして起こっていた。

百姓一揆である。

長州征討に備え、多くの諸藩は兵糧米を備蓄。

これにより、全国各地で米の値段が高騰。それに庶民の怒りが爆発し、全国各地で一揆打ちこわしが勃発。

 

もう、幕府は戦どころではなかった。

幕府は長州と講和を結び、休戦とした。

しかし、何度も言うが事実上は幕府の大敗長州の大勝利

全国を支配しているはずの幕府がたった一つの藩に負けた。

幕府の権威は完全に失墜したのである。

 

●今回のポイント

第二次長州征討は幕府の大敗で終わる。

これを見た朝廷、全国諸藩、そして国民。

「徳川の時代が終わるのではないか」

この時代を生きた多くの人がそう感じ始めた。