となりのたしまさん。

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となりのたしまさん。

過激な長州の勢いが弱まる「八月十八日の政変」【大政奉還への道③】

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公武合体

桜田門外の変以降、さまざまなところで攘夷の嵐が吹き荒れていた。

また、井伊直弼が勝手に通商条約を結んだことにより、攘夷派の幕府・開国派への反感も高まっていた。

井伊直弼の後に老中になった安藤信正久世広周は攘夷の熱を抑えるために、

「まずは幕府の威信を回復させないと!」

と考え、「公武合体」を画策することに決めた。

公武合体とは、

幕府と朝廷が一体となって国難にあたり、混乱した政局を安定させようという方法だ。

幕府は朝廷の関係を強めるために孝明天皇の妹である和宮親子内親王を将軍徳川家茂に嫁がせようと何度も画策するが、拒否される。

しかし、幕府は朝廷に「攘夷の実行」を約束することにより家茂と和宮を結婚させることに成功。孝明天皇は攘夷派であったので、幕府の将来の攘夷に期待したのだろう。

 

ただ、みなさんご存知の通り、幕府はアメリカなどとすでに条約を結んでいる。

攘夷なんか実行したら、異国の反感を買い、それこそ日本が焼け野原になってしまう。

「攘夷実行」

それが実現不可能なものであることはお分かりいただけるだろう。

 

「攘夷実行だと?そんな約束、果たせるわけないだろ。」

この政略結婚は尊王攘夷派をかえって刺激させた。

文久2年(1862年)1月。老中安藤信正は水戸の脱藩浪士による襲撃に遭い、負傷(坂下門外の変)。一命は取り止めたものの、その後失脚し、幕府の権威はさらに落ちていくのである。

 

幕政改革始動

「いまこそ薩摩が立ち上がるときだ」

と薩摩藩第12代藩主島津忠義の父、島津久光が朝廷の公家たちと協力して、幕政改革に乗り出した。

 本来であれば、雄藩であれど、幕府の許可も得ず、朝廷と協力して幕府を改めるなど許されないことである。

※雄藩とは勢いのある藩のこと。

しかし、権威がどんどん弱まっている幕府はそれに異を唱えることができず、受け入れるしかなかった。(文久の改革)

 

これにより、井伊直弼によって弾圧された人たちを赦免、

そして幕府の人事も改められる。

①徳川家茂の補佐役、将軍後見職一橋慶喜を選任。

②幕府内外の政務を総括する政治総裁職に福井藩16代藩藩主松平慶永を選任。

③京都の治安を取り締まる京都守護職に会津藩9代藩主松平容保を選任。

 

今まで政治的実権を持っていなかった朝廷により幕府内が大きく改革されることは、これが初めてであった。

そしてこの改革によって薩摩藩の政界での勢いが高まっていくことになる。

この文久の改革以前は、長州藩士長井雅楽による「航海遠略策」という開国論が幕府内で唱えられていた。航海遠略策とは井伊直弼が無断で通商条約を結んだことから始まった幕府と朝廷のわだかまりを捨て、積極的に異国との通商を推進し、国力を高め、そのうえで異国と対抗して優位に立とうとする考えである。この策は後に活躍する勝海舟や坂本龍馬の思想に近いものがある。

朝廷の許可も得て、この政策が幕府の基盤になろうとしていたときに、

長井と同じ長州藩の久坂玄瑞(尊王攘夷派)たちが唱える「破約攘夷」の考えが藩内で主流になってきたこと、

(破約攘夷とは異国に対し攻撃的な姿勢で不平等条約の破棄を要求するというものである)

「航海遠略策」を支持していた、老中安藤信正、久世広周が罷免され幕府内の後ろ盾を失ったこと、

そして、薩摩藩の島津家光が台頭してきたことで、

長井は失脚、政界をリードすることはなかった。

攘夷実行

文久3年(1863年)3月。徳川家茂は朝廷の命により上洛

将軍が上洛するのは3代将軍徳川家光以来、230年ぶりのことであった。

※上洛とは京(京都)に入ることを意味する。時代によっては別の意味にもなる。

朝廷は家茂と一橋慶喜に攘夷実行を要求する。

朝廷からすれば、孝明天皇の妹、和宮を嫁がせる代わりの約束であるので、

「約束は守ってもらわないと困るよ、君たち。」

というもっともな言い分である。

家茂と慶喜は、急進的な攘夷派の公家たちに押し切られ、

「5月10日をもって攘夷を実行する」と約束をしてしまう。

※「急進的な」とは、ここでは「過激な」という意味合いで扱う。

そして一変。

幕府の権威の失墜、朝廷の権威の上昇。

一見、朝廷の言いなりで、振り回されている幕府のように見えるが、幕府も負けてはいない。

5月10日の攘夷実行。

幕府は「攘夷は攘夷でも武力による強硬な攘夷ではなく、交渉による平和的な攘夷である」と裁量する。つまり、軍事的行動はしないという意味である。

これは急進的な尊王攘夷派である長州藩や幕府に攘夷実行を強く迫った三条実美といった尊攘攘夷派公家たちの反感を買う行為である。

 

全国諸藩は一橋慶喜率いる幕府の味方をするのか長州の味方をするのか問われた。

 

5月10日。長州は関門海峡を通過していたアメリカ商船を砲撃し、攘夷を実行したが、長州の他に攘夷を実行した藩はひとつもいなかった。

つまり、これは幕府を支持する藩がほとんどだったということである。

 

八月十八日の政変

長州は、幕府がダメなら朝廷に攘夷を直接指揮してもらおうと考えた(攘夷親征策)。

しかし、孝明天皇は攘夷派ではあったが武力による攘夷は望まず、この政策を拒否。

これは薩摩藩士高崎正風が公武合体派の中川宮朝彦親王の協力のもと、孝明天皇に働きかけたことが功を奏した。

そして、文久3年(1863年)8月18日。朝廷の中川宮、京都守護職松平容保たちによって会議が開かれ、長州藩の京都御所堺町門の警備担当を解き、京からの退去を勧告することが決議された。また三条実美含む7人の攘夷派公家たちも追放された(七卿落ち)。

この長州藩と攘夷派公家たちが京から追放されたことを八月十八日の政変と呼ぶ。

この時から長州藩と幕府・薩摩藩は対立する関係になっていった。

 

長州はもともと幕府が嫌い!?

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※Wikipediaより画像引用(毛利家家紋↑)

戦国時代後期には毛利元就が中国全域を領していた。しかし、元就の孫輝元が石田三成に任され西軍の総大将になり、関ヶ原合戦で家康率いる東軍に負けたことにより領地が中国九か国から二国に減らされた。

徳川幕府に忠義はなく、むしろ恨みの方が強い。

毎年新年の家臣による拝賀では、習慣となっているやりとりがあり、

「今年は徳川を討ちましょうか」

と家臣が質問し

「いや、まだはやい。今年は見合わせておこう」

と藩主が答える。

これは「いづれは討ちますよ、徳川さん」という意味合いを持ち、長州の反徳川の感情には根強いものがあったとされる。

 

●今回のポイント

幕府の弱体化により公武合体の考えが生まれる。

長州藩や薩摩藩などの雄藩の勢い上昇。幕府内だけでなく、諸藩も政界をリードできる風潮が生まれる。

尊攘急進派・反幕(長州藩)と公武合体派・佐幕(薩摩藩・会津藩)の対立。

 

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